2011/12/23
富山湾に面した、魚津の海岸に沿ってこの博物館〔弊社設計監理)は建っている。魚津のランドマークになっているという。
この魚津の港の海中から、夥しい数の杉の巨木が発見され、天然記念物になっている。
長く海中にあった巨木の根を、水中展示で見ることが出来る。かつての富山湾は巨木の育成に適した温暖な気候であったであろうと創造できると思います。
また、円錐形の博物館の上階には、蜃気楼の発生装置があり、いつでも蜃気楼を体験できますので、是非ご覧下さい。実際の蜃気楼現象は30km〜10kmの距離で見られる天然現象ですが、是を僅か15mほどで、体験できる施設です。
冬将軍がやってくるこの季節、立山連峰の白銀に映える博物館が懐かしい。
2011/10/03
住宅:Falling Water が竣工致しました。
最近の写真をアップロード致します。
外観は、草原の家のイメージですが、内観はご覧のように、落ち着いた雰囲気のある空間です。
吹き抜けのオープンリビング、ファイヤープレース、ダークレッドのキッチン、雁行する折れ戸のある開口部と水庭につながる軒下空間が盛り上げます。この住宅のもう一つの特徴は、PC制御に依るスマートハウスシステムにあります。写真をご覧ください。
外構工事(池、植栽、床タイル等)も完成してきました。後はガーデニング工事を仕上げます。
これから、庭が出来て、ようやく竣工になります。ご覧ください。
2011/07/16
昨年6月に着手した、地下1階、地上3階の専用住宅が、もうすぐ竣工する。
3月の震災を、無事の乗り越えて、苦労を重ねて出来る住宅です。その名のFalling Waterはあのフランクロイドライトの落水荘をイメージの原点にしている住宅です。暖炉の煙道を内包する石張りの塔は諏訪と佐久の石をコバ場積にして積み上げたものです。
強い日差しを受け止める、深い庇と外張り断熱の外壁はeco住宅を試行しております。
初めて、工事過程と現在の外観をごらんください。
2011/06/11
あれから、震災から3か月を迎えようとしています。
津波、放水、汚染水、水漏れ、溜まり水、循環水、排水、シルトフェンス、貯水タンク、・・・等々、
まるで水の百態を見るような3カ月で有りました。
改めて、震災当時のこの世の出来事と思えない映像を見て思います。
海底のヘドロを巻き返す黒い恐怖の津波、・・押し流される家々や、夥しい車、船など、あの風光明美な海岸と街並みを一瞬に押し流す震災から3カ月経て再び思い返しています。
一向に進捗しない震災対策や、集団避難後の問題が山積しています。
伝えられる、政治の空白、醜い権力闘争、それに加えてあの福島原発の問題等々・・。
悪夢の日々が続いているのです。破壊された町を、人の暮らしを再構築することが迫られています。
東京の電気を都会の消費電力を、福島に押しつけて、いい訳がありません。
そしてメルトダウンまで起きてしまった今回の原発事故につて技術の視点から検証してみましょう。
特に福島原発について技術的側面、即ち技術論的立場から基本的誤りがあると思うのです。
1.施設を計画する上で基本計画の大切であるが、施設の安全性を考慮した場合に敷地選定や、危険な施設を建設する場合に、その施設が立つ地盤面の安全設置高を検証したのか?(通常海面から+10m程度は低すぎないか)
2.原発を建設するのに、その敷地選定につて、十分に検討されていたか?また、その物理的役割と危険性を議論したか? (余りに政治的に決められ、住民に押し付けてしまったのではないか? )
3.敷地選定で基本的誤りがなかったか? 即ち日本列島は海に囲まれて、地殻変動があった場合、津波のリスクが内陸より高い海岸に近くを選定することは誤りではないか?(我が国のほとんどの原発は海岸に沿ってある。)
4.地下水位と建物の底版の関係を吟味されたか?
5.建設会社や設計者の施工検査記録・施工図・杭の状況図が表に出てこない。これは何故だろうか?
6.建築の初歩的な建屋の水漏れについて、当然打継ぎ部分や、配管の孔の耐震処理がなされていないのではないか?
7.3月12日に水素爆発によって飛び散った、あの薄い上屋は鉄道駅舎の皮膜程度の哀れな脆さである。
(もっと飛び散らない様に、強固に設計すべきではなかったか? 恐ろしいことである。)
8.以上のことは浜岡原発にも言えるのでないであろうかと想像します。(これらを明らかにしてもらわないと、再開はあり得ないと思います。仮に明らかにしても、再開はありえないでしょう。)
9.原子力発電所のコンクリートの耐久力は30年を経過すると放射線の影響から耐力も半減すると言われます。既に役目は終わっていたのです。(東電と政府がもう少し使えるとの判断が、誤りなのです。)
10.米国、WH社の原発設計者は、その危険性に以前に言及して、対策を求めていました。その声に耳を貸さない上層部によって現在の災害を招いたのでしょう。(若し、その声にこたえていたらと悔やまれます。)
そして、この原発事故の設計者・開発推進者は7,80代世代のようです。この事故の責任ある側の我々が、地球の上に暮らしていることを、忘れていたのです。
2011/03/29
<大震災 神も仏もないままに 凍てつく蕾 北の春>
東日本大地震の災いに 深い悲しみを覚えます。
改めて天災にあうたびに 災害とそれを克服してきたかに見えた技術の力の儚さと大切さを思い知ります。
地震、津浪、原発事故との甚大な災害がもたらす人命の喪失と日本経済の深刻な問題に言葉もありません。
原発の元設計者(東芝の技術者)は始めての原発の設計にアメリカの英文を辞書を片手に丸写しの設計したといいます。この災害は人災と天災を超えた、民災と言うべき悲劇です。風光明媚な三陸とそして仙台や相馬、浜通りからいわき、鹿島の500Kを襲った津波に流される、町々と車、そして破壊された社会資本等など。
福島の海岸という環境、かつての津浪の脅威を余り考察もせず設計したといいます。それが巻き起こすこのたびの甚大な被害をもたらすことを招いたことを、「原子力は人間が扱えるものではない」と今更言っても遅いのです。電力開発という目的にために、放射能という見えない脅威に慄く地域住民に避難、放浪の目にあわせている。なんという事でしょう。地震、津浪、洪水、放射能汚染、避難難民、注水、水漏れ、と続く様は、不合理の極みです。まさに民災と言うべきでしょう。
然し被害者の方々は怯まず、立ち向かおうとしています。東北の方の強さに敬意をあらわすとともに、この悲劇を克服して行く決意を次代に伝える技術者の社会的責任の重大さを肝に命じます。
冥福と祈りを・・・
いま、復興案が 模索されていますが、、ふるさとの暮らし・環境・自然・産業・教育 が調和する町並みでありたい。ふるさと再生projectの町並みを創りたい。
2010/03/06
「FALLING WATER」
別名「落水荘」・「カウフマン邸」とも呼ばれます。アメリカのペンシルバニア州にあるカウフマン氏の邸夏の住まい「落水荘―FALLING WATER」、設計はあのフランク・ロイド・ライトです。
1934〜1937に築かれた70年の建物ですが、現在でも瀟洒なデザインで、ライトの住宅建築の最高峰と言われる美しい建築です。
毎年、世界各国から約13万人の人々が見学に訪れます。
シカゴに近くペンシルバニア空港から車で2時間かかり、緑の樹海にひっそとこの別荘はあります。
有名な滝の上にそびえる姿は静かに迎えてくれています。
周りには樹海以外に何も無く、素晴らしい環境ですが、実際に居住する住まいではなく、ひと時を過ごす高質な空間でした。また、訪ねたい珠玉の作品・・です。
この建物の写真を見て、住宅建築を志した、若人も多いでしょう
私も35年前に訪れて、感動したひとりでした。今も覚えています。建築は時を越えて、これほど雄弁に力強く人を感動させる力があることを教えてくれました。
内部の、石の壁、石の床、赤いサッシュとガラスに遊ぶ光、暖炉の設え、居間から下る川に至る階段、ゲスト用の部屋のプール。それらが思い出されます。
その後、時は巡り、この住まいに同じようにあこがれるオーナーに出会って、現在その新たなFalling Water 2011の住まいを只今、設計しています。この住まいを完成を夢見て・・毎日努力中です。
2009/11/15
■伊根の舟屋
2年前の晩秋の、ちょうど今頃に丹後半島をめぐる旅に出た。
米原から敦賀に入り、若狭鉄道で天橋立を巡った。
天橋立に下りて、天の橋立の松林の中の砂地を辿ると、林の向うから静かな波音と塩の香りがしていた。
松林の中の御茶屋でお茶をいただくとイメージの天の橋立にはるばる着いたんだ、との実感が迫ってきた。橋立の麓の寺にお参りをして参道を戻りながら、松葉蟹を親類に宅配した。
伊根行きのバスに乗り、途中甕神社に詣でた。さすがに古色ゆかしいたたずまいに感動した。またバスを待って伊根に向かった。暫くすると潮の湾の向うに湾を囲むように、板塀と瓦の伊根の家並みの中のバス停で降りた。ついに念願の町に着いたのだ。
予約してあった、舟屋を宿にした民宿はすぐわかった。すぐ探せるほど小さくかわいい漁村であった。宿の床下から波の音がした。舟屋を改造した為であろう。窓を開けると海が目前で、まるで平底の船にいるようだ。軒には日干しの小魚が並んでいた。
荷を降ろして、夕闇迫る町に出た。白壁と石塀の向うに白熱灯の明かりが見えた。近付とそこは、伊根の酒屋であった。看板に伊根の地酒の赤酒とあったので尋ねると、女主人と娘が試飲をさせてくれた。早速その赤米で醸造した赤い美酒を求めてみた。聞くと娘は東京農業大学の醸造課で学んでいたと言う。それがうれしく思えた。大事に赤米の小瓶を抱え宿に戻った。宿で伊根の魚料理と地酒に感激した。
翌朝は快晴、湾に沿って町を巡った。湾の高見に神社があり、湾を見下ろしていた。
対岸の湾のから見える舟屋の重なりは予期したとはいえ、体感しないとその不思議な人の営みは解からないと思った。いつまでも見ていたかったが、またバスで天橋立に戻り、レンタカーを借りて、丹後半島を時計回りに巡ることにした。途中左手に日本海を望む漁港
に立ち寄りながら気楽な旅をした。夕方、天の橋立の見える山腹の宿に投宿した。
ホワイエから天に昇るような橋立の姿を眺めていると、白いものが降ってきた。ああ・・雪だ。この季節にと思いながら、松に積もる雪を眺めていると、天に虹が架っていた。
2009/08/31
今年の2009年7月22日、皆既日蝕がインド、中国、日本と観察されました。日本では46年ぶりとなる皆既日蝕でした。残念なことに多くの地方では天候に恵まれなかったようですが、一部の島や洋上は、コロナやダイヤモンドリングが観察されました。日本の洋上や小笠原諸島の日食に報道も過熱しました。
1963年7月21日の日蝕は、私は東京で部分日蝕を観測しました。ローソクの火で焦がしたすりガラスから見たオレンジ色の日輪が欠けて暫くするとまた明るくなっていく宇宙の劇的な映像は忘れられない青春時代の思い出であり、ドラマであった記憶が甦ります。最近のハイビジョンの報道映像はよくその雰囲気を伝えてくれるのは誠にありがたい時代になったと思います。
さぞかし古代の人は日輪の隠れていく様を見てさぞかし畏れ慄いたことと想像できます。
中国及び日本の古代の朝廷でも国家行事に太陽が隠れることを不吉とし、暦博士が日食の予定日を計算し天文博士が事前にこれを観測して密奏を行う規則が成立したとされていたほど重要な天体観測でした。古代人の太陽信仰は大変に密接であったと思われます。
とりわけ、古代史上の謎の多い、邪馬台国と日蝕を巡る謎解きに興味が付きません。
以下にその推論の経過を纏めて見ます。異論があるのを覚悟して・・・
三国志に記された、「魏志倭人伝」を再度点検してみると、「倭国はもと男子をもって王としていたが、7,80年前に倭国は乱れ、あい攻伐して,一女子を立てて王とし、卑弥呼と呼んだという。卑弥呼は鬼道に使い、よく衆を惑わす」とある。この鬼道とは今も伝わる日輪信仰に近い<占い>ではないかと思われる。
また卑弥呼像として独身の女王、弟を、持ち死んで大きな墓に葬られたと記されている。
邪馬台国論争において、周知の様に、大和説、九州説があり、確たる結論がまだ無い。最近の古代史研究は大和説を支持する論調が多く寄せられているようだが、九州説論者に支持が多いのは卑弥呼即ち天照大神説で注目される説に邪馬台国東遷説である。この説を述べたのは白鳥庫吉教授であり、その後、和辻哲郎、栗山周一なども、この仮設に立てば、古事記や日本書紀の記述と魏志倭人の記述がかなり符合するとした。
現在の北九州説を強く主張している産能大学の安本美典は在任期間等の統計的手法から、この説を支持している。その他、吉野ヶ里を邪馬台国とする研究家も現れている。まさに百家争鳴の感がある。
前途の安本氏によると、邪馬台国は筑後川全流域を勢力圏とする国であったとする説である。それが卑弥呼の死後、或いは2年続いた皆既日蝕に畏れた古代人が新たな都を求めて東遷を開始し、海を渡り大和に大和朝廷を開いたという仮説を説いている。
「邪馬台国の東遷説」と、「大和、近畿説」はどこかに接点があるかもしれない。今の混迷の状況は、故意に歴史を故意に歪めようとする何かの力があるのではあるまいかとも思われるほどである。史実は一つなのだから、今後の発見と研究を期待したい。
「大和、近畿説」を繋げるものとして「邪馬台国の東遷説」を見てみると、邪馬台国は九州の地にあった豪族の一つであった。そして、朝鮮や中国と交渉しようとしたほどの外交感覚も備えた和国の一つであったと仮定する。では、なぜ邪馬台国は九州の地を離れて東遷しようとしたならば、その契機は何であったのだろうか?
そこに私は次の重要な一つのニュースに着目したいと思う。
それは最近の天文計算の結果、過去にこの北九州あたりに2年連続して皆既日蝕が起こったという研究である。安本美典氏もその主張の論拠の一つにもしている。その説を以下に紹介して東遷したとする推論を試みたい。
それは西暦247年3月24日と西暦248年9月5日であったというPCの計算結果の事実。(これはアスキー社のPCソフトステラビナビゲーターによっても確認された。小生も確認した。驚きでした。)また、元東京天文台の斉藤国冶教授の『古代の日食をめぐって』にも発表された。
この日蝕が、しかも2回とも天候もよく観測された皆既日蝕であったのだろうあろうか?不可思議な現象が同じ北九州で2回も起り、日輪が隠れたとは・・・古代の時代かなりの衝撃的な事件であったろう。
「この恐れ慄いた日蝕が、東遷する契機となったのではないか?」とするこの推論に私は強い関心と興味がある一人です。
この年の頃と言えば卑弥呼が死んだと見られる年でもあるとされる。
卑弥呼が神話化したのが天照大御神(太陽神)ではないか。古事記や日本書紀の「天の岩屋」の神話の記述はこの2回の皆既(或いは部分)日蝕と古代人の信仰に強い影響を受けたものではないかと思いたくなる。このように天照大御神=卑弥呼と見ると、がぜん九州説が有利と成るのであるが・・・史実はどうであろうか?
最近研究は古代の発掘品を根拠に大和説の傾きかけてもいる。箸墓古墳もその築造年代測定が西暦280年前後とされ、卑弥呼の死後から50年の経た古墳とされこの説は無視されてきた。しかしこのような年代の不一致は今後明らかになって来るだろう。
安本氏によると、邪馬台国は筑後川全流域を勢力圏とする国であったとする説である。それが卑弥呼の死後、或いは2年続いた皆既日蝕に畏れた古代人が新たな都を求めて東遷を開始し、海を渡り大和に大和朝廷を開いたという仮説を説いている。
また、今後の100年の間に日本で日蝕が見られるのは2035年と2063年という。
このたびの日食報道を想うと、卑弥呼時代に想いに繋がってくる。ああ邪馬台国は何処に・・
2009/07/20
■宇宙旅行の夢
40年前の1969年7月20日は人類が始めて月に降りた記念日です。
七夕も過ぎ、煌く夜空の星を想い宇宙旅行のお話をしたい。
2004年10月4日に第1回のSpace Ship1を宇宙に向けて発射され一人乗り有人飛行を成功させたニュースは新たな時代の幕開けを知らせてくれます。さらに1回目から14日以内に2回目の飛行をも高度328000フィートの飛行で成功させ、10万ドルの賞金を獲得したという。
その新ロケットデザイン発想は、「安全には発射され、安全にかつ繰り返し使え、大気圏突入の難問を解決した革新的デザイン」でありました。
NASAやロシヤの発想とは革新的に違う新しいコンセプトの新飛行体の商業宇宙旅行の幕開けです。
今や新たな航空宇宙産業の生産会を設立し、大組織によらない飛行の成功を目指し、商業宇飛行を夢見て、 2005年7月27日にはサーリチャードブランソン(ファウンダー、ヴァージングループ会社)、バートルータン氏(代表取締役社長、スケールコンポジット)は 新会社は設立したといいます。今後 新しい宇宙船を打ち上げ( SS2 ) とホワイトナイト2 ( WK2 )のデザインを所有し、宇宙飛行の歴史は作られることになるという。
そしてもうその予約も開始されているとのこと。
間もなく七夕の出逢いも宇宙から見られることになるのだろうと思うと楽しみなことであります。今後に注目です。
2009/06/18
5月の東北、蔵王に旅しました。そこで出逢った宿の女将と仲居さんの見事な対応に驚いた。
宿の名は 蔵王、高見屋という。訪れた私たちに、実に心地いい応対をしていただいた。
勿論、宿のしつらえも見事なものであった。特に使い込まれた浴槽と湯の硫黄のにおいが忘れられない。
隅々に、宿の人たちに支えられ建築が活きていいるような感覚を覚えた。
何より湯宿に<寄り添う人>のもてなしに感動した。また尋ねてみたい宿の一つにしておこう。
宿から、春浅い蔵王の山にケーブルカーで尋ねて見ることにした。里は薄日が指していていたが、見上げる山は霧に包まれているようであった。こころいい速さで、山腹の駅に着いた。里と違い、山の気温は肌だ寒い
かった。見晴台から眺めると里の下のあたりは浅黄の間に桜色、中腹は茜色と杉の濃い緑、頂の近くは枯葉色のグラデーションに成って、色が春の訪れを教えていた。その春浅い林道を下ると、椎の実の収穫予測をしている人に出会った。
尋ねるとこの調査は豊凶調査という。山林にい4〜5輪の網を広げ落ちる木の実の数を庁調査しているとのこと、何でそんな調査を問うと熊の食料の過不足を調べているとのこと。地味だがここにも人と自然を支える人がいて、驚いた。
また暫く林道を行くと静かな森の池に出会った。ひっそりと雪解けの清冽な水を湛えた池に聳える雪山の嶺を流れる雲と青空が押し合っているかのようであった。 池の畔の東屋で休息をとりながら土手を歩くと、フキノトウや土筆が雪解けた斜面に顔ををだしていた。ポケットいっぱいに採り遊んでからだ。
雪解けの沢道を歩くと、4階建てのスイスの合掌造りの洋館の佇まいの山小屋が突如現れてきた。ここでティタイムにしようかと思わずニスの塗られた重量の木の扉を開けて たのもう、こんにちはと主人を呼んだがあいにく留守の様であった。実はこの蔵王の山小屋は30年前になるだろうか、昔、家族とスキーに訪れた懐かしい山小屋だ。名は<三五郎小屋>と言い、よくメンテナンスされていてあの頃を思い出しながら、山小屋を見上げていた。これも山小屋を愛する人たちの贈り物であろうか。いつの間にか霧は切れて青空が山を照らしていた。春浅い山の匂いが忘れられない小さな旅であった。